鶴ヶ城とは?難攻不落と呼ばれた理由と見どころを徹底解説【会津若松】

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東北
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戊辰戦争で「難攻不落の城」と言われ、大河ドラマなどで名前を知ったという方も多いのではないでしょうか。

この記事を読めば、「鶴ヶ城とは?」「なぜ難攻不落の城と呼ばれるのか?」「最後はどうなったのか?」といった疑問がすっきり解決するはずです。あわせて、赤瓦や廊下橋といった見逃せない見どころもご紹介します。

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そもそも鶴ヶ城とは

鶴ヶ城の正式名称は「若松城」といいます。

その始まりは1384年(至徳元年)、蘆名直盛が「東黒川館」(小田垣の館とも)を築いたことにさかのぼると言われています。諸説ありますが、15世紀半ばまでは「黒川城」と呼ばれていました。

1589年、長年にわたり蘆名氏と争っていた伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、黒川城を本拠地とします。しかし豊臣秀吉に服従したことで会津の地を召し上げられ、政宗は本拠地であった米沢城へと戻ることになりました。

代わって会津に入ったのが、秀吉配下の蒲生氏郷です。氏郷は1592年頃から黒川城を近世城郭へと大規模に改修し、城下町を整備。地名も「黒川」から「若松」へと改めました。そして1593年、7層の天守閣が完成したのにあわせて、城の名も「鶴ヶ城」となったのです。

基本情報

項目内容
開館時間8:30~17:00(最終入館16:30)
休館日無休
駐車場西出丸駐車場・東口駐車場・南駐車場(いずれも有料。最初の1時間200円、以降1時間ごとに100円追加)
入館料大人410円、小人150円

※料金・開館時間等は変更される場合があります。訪問前に公式サイトで最新情報をご確認ください。

難攻不落の城と言われる理由

鶴ヶ城が「難攻不落の城」と呼ばれるようになったのは、1868年に起きた戊辰戦争(会津戦争)がきっかけです。

新政府軍による猛攻を約1ヶ月にわたって耐え抜いたことから、この異名で知られるようになりました。鶴ヶ城の周囲は1万人以上ともいわれる敵兵に包囲され、無数の砲弾が飛び交う過酷な状況でしたが、最後まで落城することはありませんでした。

耐え抜くことができた理由のひとつが、死角のない堅牢な石垣です。緻密に計算された縄張りと石垣の防御力が、籠城戦を支えたと言われています。最終的には会津藩が降伏し、東北における戊辰戦争の戦闘はここで終結を迎えました。

見どころ①:特徴的な赤瓦

鶴ヶ城の瓦は、もともと西日本で発達した黒瓦が使われていました。しかし雪国ならではの低温や積雪に耐えられるよう、鉄分を多く含んだ「赤瓦」が会津の地で開発され、後に使用されるようになりました。

この赤瓦を天守閣にまとった姿を見られるのは、全国でも鶴ヶ城だけです。黒瓦の城とはひと味違う、会津ならではの景観をぜひ間近でご覧ください。

見どころ②:天守台の石垣

天守閣を支える石垣は、約400年以上前に積まれたものです。自然の石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み」と呼ばれる工法が用いられており、当時の職人技を今に伝えています。

見どころ③:廊下橋

本丸へと通じる橋のひとつに、赤い欄干が印象的な「廊下橋」があります。現在の橋は架け替えられたものですが、藩政時代には屋根付きの豪華な橋がここに架かっていたと伝えられています。

見どころ④:天守閣からの眺め

天守閣の最上階まで上ると、会津若松の市街地を一望できます。四季折々の会津の風景を眺めながら、かつてこの城を守り抜いた人々に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

まとめ

鶴ヶ城の歴史は1384年、蘆名直盛による東黒川館の築城にまで遡ります。その後、蒲生氏郷による大改修を経て1593年に現在の名となり、1868年の戊辰戦争では新政府軍の猛攻を約1ヶ月耐え抜いたことから「難攻不落の城」として知られるようになりました。最終的には会津藩の降伏によって戦いは終結しています。

会津だからこそ生まれた特徴的な赤瓦は、現在見られるのは全国で鶴ヶ城だけです。石垣や廊下橋など見どころも多いので、会津若松を訪れた際はぜひ足を運んでみてください。

それでは最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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