鶴ヶ城の歴史とは?蘆名氏の築城から会津藩・戊辰戦争前夜までを徹底解説

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福島県会津若松市を代表する観光地・鶴ヶ城(つるがじょう)。戊辰戦争で新政府軍を相手に約1か月にわたる籠城戦を耐え抜いた「難攻不落の名城」として、また白虎隊が所属した会津藩の象徴として広く知られています。

しかし、鶴ヶ城の歴史は会津藩よりもずっと古く、南北朝時代の1384年までさかのぼることをご存じでしょうか。蘆名氏による築城から、奥州の覇権をめぐる伊達政宗との攻防、豊臣政権下での近代的な城への生まれ変わり、そして徳川家と深く結びついた会津藩の成立まで、鶴ヶ城は何度も城主を変えながら歴史を重ねてきました。

この記事では、会津藩が誕生する以前の鶴ヶ城の歴史を中心に、なぜ会津藩が徳川家に対して命がけの忠誠を誓うことになったのか、その背景を時系列でじっくり掘り下げてご紹介します。読み終える頃には、鶴ヶ城が「なぜ戊辰戦争の舞台になったのか」がすっきりと理解できるはずです。

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鶴ヶ城の始まり ― 蘆名氏による築城

鶴ヶ城の歴史は、南北朝時代の至徳元年(1384年)にまでさかのぼります。

会津地方を治めていた蘆名氏の第7代当主・蘆名直盛(あしな なおもり)が、会津盆地の中央部に「東黒川館(ひがしくろかわだて)」と呼ばれる館を築いたのが始まりとされています。伝承によれば、直盛は盆地のどこに城を築くべきか田中稲荷神社に祈願したところ、雪の上に続く狐の足跡に導かれてこの地にたどり着いたといわれ、その感謝から城内には今も稲荷神社が祀られています。

この東黒川館が、のちに周辺一帯を治める拠点として拡張・整備され、「黒川城」と呼ばれるようになりました。地名の由来となった黒川(現在の湯川の旧称)は、現在も鶴ヶ城や会津若松市街の歴史を語るうえで欠かせない地名です。

蘆名氏の全盛期と黒川城

蘆名氏はその後、約170年にわたって会津地方を治め続けます。天文22年(1553年)には、第16代当主・蘆名盛氏(あしな もりうじ)が父・盛舜の跡を継いで黒川城主となりました。

盛氏の代に蘆名氏は最盛期を迎え、会津だけでなく仙道(現在の福島県中通り地方)にまで勢力を拡大。「奥州の名君」とも称され、黒川城を中心とした城下町の整備も進みました。しかし盛氏の死後、跡継ぎ問題から蘆名家中に亀裂が生じ、次第に勢力を弱めていくことになります。

伊達政宗、会津を制す

蘆名氏の衰退に乗じて会津への侵攻を進めたのが、東北統一を目指す伊達政宗でした。天正17年(1589年)、政宗は「摺上原の戦い」で蘆名氏を破り、黒川城に入城します。これにより約200年続いた蘆名氏による会津支配は終わりを告げました。

しかし政宗による会津支配は長くは続きませんでした。天正18年(1590年)、天下統一を進める豊臣秀吉による小田原征伐・奥州仕置の結果、政宗は会津領を没収されてしまいます。わずか1年ほどで手放すことになった会津の地は、代わって秀吉配下の蒲生氏郷(がもう うじさと)に与えられることになりました。

蒲生氏郷による近代化と「鶴ヶ城」誕生

天正18年(1590年)に黒川城に入城した蒲生氏郷は、文禄元年(1592年)から城の大規模な改修に着手します。それまで戦国大名の居館的な性格が強かった黒川城を、石垣や瓦葺きの天守を備えた本格的な近世城郭へと生まれ変わらせました。天守は7層(望楼型)ともいわれる堂々たる姿だったと伝えられています。

氏郷はこの改修にあわせて城下町の名称も「黒川」から「若松」へと改め、翌文禄2年(1593年)に天守が完成すると、城の名前も「鶴ヶ城」と改められました。氏郷の出身地・近江日野にゆかりのある地名や、松にちなむ縁起の良い字を組み合わせたともいわれています。今日私たちが「鶴ヶ城」と呼ぶ名称は、この蒲生氏郷の時代に生まれたものなのです。

会津大地震と加藤氏による天守閣の大改修

蒲生氏郷が築いた壮麗な天守閣も、自然の猛威には勝てませんでした。慶長16年(1611年)、会津地方を襲った大地震(会津地震)により、鶴ヶ城の天守閣は大きく傾く深刻な被害を受けてしまいます。

その後、寛永4年(1627年)に伊予松山から会津へ入封した加藤嘉明・明成親子が、傾いたままだった天守閣の再建を進めます。父の跡を継いだ加藤明成は、寛永16年(1639年)についに天守閣の建て替えを完成させました。このとき、蒲生氏郷時代に7層あった天守は、地震に強い層塔型の5層5階へと造り替えられ、現在私たちが目にする鶴ヶ城天守のベースが完成します。あわせて西出丸・北出丸なども増築され、防御力の高い難攻不落の城へと進化しました。

保科正之の入封と会津藩の誕生

加藤明成の時代、家臣団との対立(会津騒動)などから藩政は混乱し、明成は改易(領地没収)となってしまいます。

代わって寛永20年(1643年)、出羽山形から会津へ入封したのが保科正之(ほしな まさゆき)でした。正之は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の異母弟にあたり、23万石を与えられて会津藩の初代藩主となります。ここに至って、鶴ヶ城を居城とする「会津藩」がようやく誕生したのです。

正之は家光から深い信頼を寄せられ、家光の没後は幼い第4代将軍・徳川家綱の後見役として幕政を支えました。この兄弟としての深い結びつきが、後の会津藩のあり方を大きく決定づけていくことになります。

会津家訓十五カ条 ― 徳川家への忠誠の原点

保科正之は晩年の寛文8年(1668年)、会津藩の精神的な支柱となる「会津家訓十五カ条(あいづかきんじゅうごかじょう)」を制定しました。

その第一条には「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず」、つまり「将軍家(徳川家)に対してはひたすら忠義を尽くせ、他藩の動向を判断材料にしてはならない」という趣旨が明記されています。もしこの教えに背く藩主が現れたなら、それは自分の子孫ではないとまで言い切る、極めて厳格な内容でした。

この家訓は以後200年以上にわたり、歴代の会津藩主・藩士の行動規範として受け継がれていきます。子どもたちが学ぶ「什の掟」に残る「ならぬことはならぬものです」という言葉も、この家訓の精神を色濃く受け継いだものです。

松平容保と京都守護職、そして戊辰戦争へ

幕末になり、会津藩の運命を大きく左右したのが第9代藩主・松平容保(まつだいら かたもり)です。尾張徳川家の分家・高須藩から養子として会津松平家に入った容保は、家訓の教えにことのほか忠実であろうとした人物でした。

文久2年(1862年)、尊王攘夷運動が激化する京都の治安維持を担う「京都守護職」への就任を、松平春嶽や一橋慶喜らから強く要請された容保は、周囲の反対を押し切ってこれを引き受けます。会津家訓十五カ条の第一条が示す「徳川家への絶対的な忠誠」を体現した決断でしたが、この京都での活動が、新選組による尊王攘夷派の取り締まりなどを通じて薩摩藩・長州藩をはじめとする雄藩の強い反感を買うことになりました。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発すると、朝敵とされた会津藩は新政府軍の攻撃対象となります。同年8月からは鶴ヶ城を舞台に約1か月におよぶ籠城戦(会津戦争)が繰り広げられ、白虎隊の悲劇もこの戦いの中で生まれました。約270年前に蘆名直盛が築いた東黒川館に始まる鶴ヶ城の歴史は、皮肉にも保科正之が定めた「徳川家への忠誠」という教えによって、幕末最大の悲劇の舞台へと導かれていったのです。

まとめ

鶴ヶ城の歴史は、1384年に蘆名直盛が築いた東黒川館から始まり、蘆名氏約170年の統治、伊達政宗による一時的な支配、蒲生氏郷による近代的な城郭への大改修と「鶴ヶ城」という名の誕生、慶長の大地震と加藤氏による天守閣再建を経て、保科正之による会津藩の成立へとつながっていきました。

そして正之が遺した「会津家訓十五カ条」の徳川家への忠誠という教えは、200年以上の時を経て第9代藩主・松平容保の京都守護職就任という決断を後押しし、結果として会津藩を戊辰戦争という悲劇へと導くことになります。

鶴ヶ城を訪れる際は、白虎隊や戊辰戦争の物語だけでなく、その背景にある蘆名氏・伊達政宗・蒲生氏郷・保科正之という4世紀にわたる歴史の積み重ねにも、ぜひ思いを馳せてみてください。きっと、いつもとは違った鶴ヶ城の姿が見えてくるはずです。

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