北海道を代表する観光スポットとして知られる小樽運河ですが、「何のために作られたのか」「どんな歴史をたどってきたのか」を知っている方は意外と少ないのではないでしょうか。
この記事では、小樽運河が生まれた背景から建設の経緯、戦後の衰退、そして現在の観光地としての姿まで、小樽運河の歴史を時系列でご紹介します。読み終える頃には、運河沿いを歩く景色がまったく違って見えるはずです。
小樽運河が生まれる前の小樽市の歴史
小樽運河を理解するには、まず小樽市がどのようなだったのかを知る必要があります。
小樽はもともと、江戸後期から明治にかけてニシン漁で栄えたまちでした。さらに明治中期になると、内陸の幌内(現在の三笠市周辺)から産出される石炭を運び出すため、北海道で最初の鉄道が小樽に開通します。
これにより小樽は、石炭の集積地であると同時に、開拓移民のための生活物資供給基地としての役割も担うようになりました。金融機関や商社が次々と進出し、最盛期には「北のウォール街」と呼ばれるほどの繁栄を見せたのです。
なぜ小樽運河は作られたのか
集積地・供給基地としての機能が拡大するにつれ、小樽港では大量の荷物を効率よく運ぶ仕組みが必要になりました。
当時の小樽港には、大型船が直接横付けできる岸壁がありませんでした。そのため沖合に停泊する大型船と港との間を、艀(はしけ)と呼ばれる小型船が行き来して荷物を運んでいたのです。
しかし小樽港は波が荒く、天候が崩れると艀の作業がたびたび中断してしまうという弱点を抱えていました。この非効率を解消することこそが、運河建設の最大の目的でした。
小樽運河の建設と「運河式論争」
こうした背景から、大正3年(1914年)に小樽運河の建設工事が始まりました。
小樽は山が海に迫る地形で、内陸を掘り込む余地がなかったため、沖合を埋め立てて陸地をつくり、その埋立地と元の陸地との間の水路を運河とする「運河式(海岸沖合埋立方式)」という、国内でも珍しい工法が採用されました。
工事は当初、数年で完了する予定でしたが、この運河式の是非をめぐって市議会が紛糾し、区長が辞職する事態にまで発展します。度重なる混乱を経て、当初の計画から4年遅れの大正12年(1923年)12月27日、小樽運河はついに竣工しました。
小樽運河の衰退とヘドロ問題
戦後、昭和30年代後半になると、大型船が直接接岸できる埠頭(ふとう)の整備が進み、艀と運河の役割は徐々に終わりを迎えました。
役目を終えた運河は使われなくなり、ヘドロが堆積して悪臭を放つようになります。この状況を受け、運河を埋め立てて道路にする都市計画が持ち上がりました。
しかし、この埋立て計画に対して地域住民から強い反対運動が起こります。歴史研究者やデザイナーらが中心となって保存運動団体を結成し、約10年以上にわたる保存運動が続けられました。その結果、運河をすべて埋め立てるのではなく、幅の半分を残すという形で決着したのです。
現在の小樽運河
昭和61年(1986年)、運河沿いには石畳の散策路とガス灯が整備され、小樽運河は全国有数の人気観光地として生まれ変わりました。
現在では、昼間の運河散策はもちろん、夜には倉庫群とガス灯がライトアップされ、ロマンチックな雰囲気を楽しめることでも人気です。運河沿いを巡るクルーズも運航されており、水上から歴史的な倉庫群を眺めることができます。
まとめ
小樽運河は、ニシン漁と石炭輸送で繁栄したまちが、荷役の効率化を目指して生み出した水路です。時代の変化とともに一度は役目を終え、埋立ての危機を迎えましたが、地域住民の保存運動によって半分の姿を残し、全国的な人気観光地へと生まれ変わりました。
小樽運河を訪れる際は、こうした歴史に思いを馳せながら散策してみると、いつもとは違った景色が見えてくるかもしれません。


コメント