本妙寺と加藤清正|熊本・浄池廟と胸突雁木、清正公銅像までの歩き方

本妙寺の白い仁王門。「發星山」の額がかかり、門の先に石畳の参道と山が見える(熊本市西区) 九州
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熊本城を築いた武将・加藤清正。その清正が眠っているのが、熊本市西区花園の山の中腹にある本妙寺(ほんみょうじ)です。

この記事では、本妙寺と加藤清正の関わりを、寺の歴史をたどりながら解説します。あわせて、清正の廟所「浄池廟(じょうちびょう)」へ続く石段「胸突雁木(むなつきがんぎ)」や、山の上に立つ清正公銅像までの歩き方を、2023年9月に訪れたときの写真で紹介します。

熊本城そのものの歴史は「熊本城の歴史とは?加藤清正の築城から西南戦争、2度の地震と石垣の復旧まで解説」にまとめています。城とあわせて読むと、清正という人物がよりわかりやすくなると思います。

※料金・アクセスなどの情報は2026年10月24日に確認したものです。写真は2023年9月27日に撮影しました。

本妙寺とは?加藤清正の菩提寺の歴史

本妙寺の白い仁王門。「發星山」の額がかかり、門の先に石畳の参道と山が見える(熊本市西区)

本妙寺の仁王門。額の「發星山」は本妙寺の山号です。

本妙寺は日蓮宗のお寺です。始まりは熊本ではなく、大坂(摂津)でした。

公式サイトの由緒によると、天正13年(1585年)、加藤清正が父・清忠の追善のために日真上人を招き、摂津に建てたのが本妙寺の始まりです。その後、清正が肥後の大名になると、天正19年(1591年)に本妙寺は熊本城の中へ移されました。

慶長10年(1605年)には後陽成天皇から勅願道場とする旨が下され、翌年には永代紫衣を許されています。清正の時代から、格式の高いお寺だったことがわかります。

清正の死と、山の中腹の廟所

清正は慶長16年(1611年)、熊本城の中で亡くなりました。遺言により、城の西にある中尾山の中腹に廟所が造られます。これが今の浄池廟の始まりです。

その3年後の慶長19年(1614年)、城の中にあった本妙寺が火事で焼けてしまいました。そこで、寺は清正の廟所がある中尾山へ移り、元和2年(1616年)に移転の法要が行われています。つまり、今の本妙寺は「清正のお墓のそばに、お寺が引っ越してきた」という成り立ちなのです。

西南戦争と明治の再建

明治10年(1877年)の西南戦争(公式の表記では「西南の役」)では、大本堂が焼けてしまいました。その後、十数年の工事を経て、明治17年(1884年)に大本堂が再建されています。

本妙寺仁王門の中に立つ石造りの仁王像

仁王門の左右には、石の仁王像が立っています。

入口の仁王門は、観光庁の多言語解説文によると1920年に建てられた門で、当時の日本ではまだめずらしかったコンクリートで造られています。木造の山門を見慣れていると、白くて大きな門の姿は少し意外に感じるかもしれません。

仁王門から先は、まっすぐな石畳の参道が山のほうへ続いています。

参道と塔頭(たっちゅう)、本堂

本妙寺の「勅願道場」の額がかかる木造の門と、その奥の本堂

「勅願道場」の額がかかる門。慶長10年に勅願道場とされた由緒を伝えています。

参道の両側には、本妙寺の塔頭(大きなお寺の中にある小さなお寺)の門が並んでいます。観光庁の解説文によると、本堂が西南戦争で焼けて建て直されたため、参道に並ぶほかの建物のほうが本堂より古いものも多いそうです。

上の写真は「勅願道場」の額がかかる門で、奥に本堂が見えます。

浄池廟へ続く176段の石段「胸突雁木」

大きなクスノキの横を上る、灯籠の並ぶ本妙寺の石段

灯籠が並ぶ石段。右には大きな木が枝を広げています。

本堂のあたりから浄池廟へは、急な石段を上ります。この石段が「胸突雁木(むなつきがんぎ)」です。胸を突くほど急な石段、という意味の名前です。

観光庁の解説文によると、石段は176段あり、寄進された石灯籠が400〜500基並んでいます。石段を上りきった右手には中門があり、その前には大きな「長夜灯」が立っています。昔は夜になると長夜灯に火がともされ、熊本城の天守からもその明かりが見えたといわれています。

階段はとにかくきつかったです。気温も高かったこともありましたが、夏に行く際は水分は必ず余裕をもっていくことをおすすめします。

浄池廟は熊本城の天守と同じ高さ

本妙寺の「浄池廟」の額がかかる門と、その奥の建物

「浄池廟」の額がかかる門。この奥に清正が眠っています。

石段の上の門をくぐると、石畳の広場の先に拝殿と本殿が並んでいます。ここが加藤清正の廟所、浄池廟です。

清正のお墓は本殿にあり、その横には、清正が亡くなったあとに殉死した2人の家臣のお墓もあります。観光庁の解説文によると、本殿は熊本城とのつり合いを考えて建てられていて、本殿の屋根の高さは熊本城の大天守と同じだそうです。亡くなったあとも城を見守っている、という清正らしい話です。

明治時代には神仏分離の命令が出され、神として祀られていた清正は、当時熊本城の中にあった加藤神社へ移されました(観光庁の解説文による)。

清正の命日にあたる7月23日には、清正をしのぶ法要「頓写会(とんしゃえ)」が行われます。慶長17年(1612年)、清正の一周忌に始まったもので、2026年7月23日には第416回が開かれました。

山の上の清正公銅像と熊本市街の眺め

本妙寺の清正公銅像へ上る石段。玉垣の石に「塔中」「奉納」の文字が並ぶ

銅像へ続く石段。両側の石柱に寄進の文字が刻まれています。

浄池廟からさらに山を上ると、加藤清正の銅像が立っています。観光庁の解説文では、浄池廟からさらに300段ほど上った先、とされています。

本妙寺の「清正公御銅像参道入口」と書かれた赤い案内札と、木陰の道

「清正公御銅像参道入口」の案内。道の先に灯籠が見えます。

道の入口には「清正公御銅像参道入口」の札が立っているので、迷わずに進めます。

本妙寺の、長い槍を持って立つ加藤清正の銅像を下から見上げた様子

長烏帽子形の兜をかぶり、槍を持つ清正公銅像。

銅像は1960年に建てられたもので、作者は長崎の平和祈念像も手がけた彫刻家・北村西望です。高い台座の上に、長烏帽子形の兜をかぶり、長い槍を手にした清正が立っています。

本妙寺の清正公銅像の近くの高台から見た熊本市街。手前に森、遠くに山並み

銅像の近くの高台からは、熊本の市街が一望できます。

銅像のまわりは高台になっていて、熊本の市街と、その向こうの山並みまで見渡せます。熊本城も見えます。

熊本市を一望できる場所でとてもきれいでした。正直疲れましたが階段を昇る価値はあったと感じます。

本妙寺へのアクセスと回り方

住所・アクセス

項目内容
住所熊本県熊本市西区花園4-13-1(公式サイトの表記は「熊本市花園4-13-1」)
電話096-354-1411
最寄りの電停熊本市電「本妙寺入口」
駐車場あり(公式サイトに駐車場までの地図あり)
宝物館開館準備中(公式サイトの表記)
公式サイト本妙寺

(2026年10月24日、本妙寺公式サイトと熊本市交通局のサイトで確認)

市電の「本妙寺入口」電停で降りて、歩いて仁王門へ向かいます。

境内の拝観時間・料金は、公式サイトには書かれていませんでした。

回るときのポイント

  • 仁王門 → 参道 → 胸突雁木 → 浄池廟 → 清正公銅像 と、ずっと上り坂と石段が続きます。歩きやすい靴で行くのがおすすめです。
  • 銅像は浄池廟よりさらに上にあります。時間と体力に余裕を持って回りましょう。
  • 塔頭の門には「犬を連れての立ち入りをお断りいたします」の札がありました(2023年9月の撮影時)。
  • 7月23日の頓写会の時期は、参拝の人が多くなります。過去には交通規制の案内も出ているので、公式サイトのお知らせを見てから出かけると安心です。
本妙寺の参道の石畳の横で寝そべる白黒の猫

参道の石畳の横では、猫がのんびりしていました。

熊本城とあわせて回る1日

本妙寺は、熊本城のある市の中心部から市電で行ける場所にあります。午前に熊本城を見て、昼に市街でごはん、午後に本妙寺、という回り方がしやすいです。

城の中で亡くなった清正が、城の西の山に眠り、その廟の屋根は天守と同じ高さに造られている。城と本妙寺の両方を歩くと、この2つのつながりがよくわかります。

熊本城と本妙寺をゆっくり回るなら、熊本市内に泊まるのが便利です

本妙寺は熊本市電の「本妙寺入口」電停が最寄りで、熊本城とあわせて1日で回れます。熊本市内に泊まれば、午前に城、午後に本妙寺の石段と清正公銅像まで、時間を気にせず歩けます。

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まとめ

  • 本妙寺は、加藤清正が父の追善のために大坂で建てた日蓮宗の寺で、清正の死後、廟所のある熊本・中尾山に移ってきました。
  • 清正が眠る浄池廟へは、176段の石段「胸突雁木」を上ります。本殿の屋根は熊本城の大天守と同じ高さとされています。
  • さらに上には、1960年に建てられた北村西望作の清正公銅像があり、熊本の市街を見渡せます。
  • 最寄りは熊本市電の「本妙寺入口」電停。熊本城とあわせて1日で回れます。

正直辛いと感じましたが昇った場所から見えた景色はすごくいいです。


参考・確認した情報(2026年10月24日確認)

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