広島城は、戦国大名の毛利輝元が太田川の河口に築いたお城です。江戸時代には広島藩の中心となり、明治以降は軍の施設が置かれました。1945年の原爆で天守が倒れ、戦後に外観が復元されています。
この記事では、広島城の歴史を、築城から原爆、天守の復元、そして2026年3月の天守の閉城まで、年表と合わせてわかりやすく紹介します。城跡の見どころも、実際に歩いたときの写真で紹介します。
私は2026年8月22日のお昼すぎに広島城跡を歩きました。天守はすでに閉城していたため、外から見学しました。写真は、すべてそのときに撮ったものです。
この記事の情報について
- 情報の確認日:2026年10月17日(広島城の公式サイト、広島市の公式サイトで確認)
- 広島城の天守は、2026年3月22日に閉城しました。天守の中には入れませんが、外観は見学できます。
- 出かける前に、最新の情報を確認してください。
1. 広島城とは|「鯉城」とも呼ばれる平城

広島城は、広島市中区にあるお城です。太田川の河口の三角州という平らな土地に築かれた「平城」で、「鯉城(りじょう)」という別名でも呼ばれています。
江戸時代の天守は、大天守と2つの小天守を廊下でつないだ形で、建てられた当時は大坂城の天守に次ぐ大きさだったと考えられています。今の天守は、戦後に外観を復元したものです。
2. 広島城の歴史
毛利輝元が築城(1589年〜)
1589年(天正17年)、中国地方の大名・毛利輝元が、太田川の河口で築城を始めました。三角州のやわらかい地盤に苦労しながら、1599年ごろに完成したとされています。輝元は1591年からここを本拠地にしました。
広島城の築城とともに城下町が作られ、これが今の広島の町の始まりとされています。
福島正則の時代と改易(1600〜1619年)

1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の総大将だった輝元は徳川家康に敗れ、今の山口県へ移されました。代わりに広島城に入ったのが福島正則です。
城の北側・西側に残る石垣は、正則の時代に築かれたと考えられています。しかし正則は、洪水で傷んだ城を幕府の許可なく直したことをとがめられ、1619年に領地を取り上げられました(改易)。
浅野家が12代約250年治める(1619年〜明治)
1619年(元和5年)、浅野長晟が広島城に入り、広島藩浅野家の初代藩主になりました。浅野家はその後12代、約250年にわたって広島を治め、明治の初めまで続きました。
明治以降は軍の施設に|日清戦争の大本営

明治時代になると、多くのお城が取り壊されるなかで、広島城の天守は残されました。城の中には陸軍の施設が置かれ、日清戦争のときには、本丸の建物に戦争を指揮する「大本営」が置かれました。
大本営の建物は原爆で倒れ、今は基礎の石だけが残っています。写真のように、本丸の中で見ることができます。
国宝の天守と原爆(1931年・1945年)
江戸時代から残っていた天守は、1931年(昭和6年)に国宝に指定されました。しかし1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾によって天守は倒れ、城の建物はすべて失われました。
城跡には、原爆に耐えて今も生きている「被爆樹木」もあります。公式サイトの見どころマップでは、クロガネモチ、マルバヤナギ、ユーカリノキが紹介されています。
天守の外観復元(1958年)と二の丸の復元(1989〜1994年)

戦後の1958年(昭和33年)、鉄筋コンクリートで外観を復元した天守が完成し、歴史の資料館「広島城郷土館」として開館しました。
さらに1989年から1994年(平成元年〜6年)にかけて、二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が、江戸時代の姿に木造で復元されました。写真の表御門と、内堀にかかる木の橋「御門橋」がその入口です。
天守の閉城(2026年3月22日)

1958年に復元された天守は、コンクリートの劣化や設備の古さから、安全のため2026年3月22日に閉城しました。広島市によると、天守を取り壊す予定はなく、外観は引き続き見ることができます。
天守の博物館の役割は、新しく作られる「広島城三の丸歴史館」が引き継ぎます。1階は2027年6月1日、2階の展示室は2027年10月1日に開館する予定です。天守を木造で復元するかどうかは、まだ決まっていません(2026年10月17日時点)。
3. 年表でみる広島城
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1589年(天正17年) | 毛利輝元が築城を始める |
| 1591年 | 輝元がここを本拠地にする |
| 1599年ごろ | 城が完成する |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いのあと、福島正則が入る |
| 1619年(元和5年) | 正則が改易され、浅野長晟が入る |
| 明治時代 | 陸軍の施設が置かれる。日清戦争で大本営が置かれる |
| 1931年(昭和6年) | 天守が国宝に指定される |
| 1945年(昭和20年)8月6日 | 原爆で天守が倒れる |
| 1958年(昭和33年) | 天守の外観を鉄筋コンクリートで復元 |
| 1989〜1994年(平成元〜6年) | 二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓を木造で復元 |
| 2026年(令和8年)3月22日 | 天守が閉城する |
4. 広島城跡の見どころ
天守の外観

中には入れなくなりましたが、黒い板張りの天守は、本丸から間近に見上げることができます。
二の丸の表御門・櫓
二の丸の復元された建物(表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓)は、天守の閉城後も入ることができます。広島城の公式サイトによると、開館時間は4〜9月が9:00〜17:30、10〜3月が9:00〜16:30で、入館料は無料です。
広島護國神社

本丸の跡には、広島護國神社があります。大きな白い鳥居をくぐると、広い境内と社殿が見えてきます。

大本営跡・被爆遺構
本丸には、大本営跡の基礎の石のほか、原爆の火災の熱で赤く変わった石が残る「中御門跡」や、戦争の終わりごろに作られた「中国軍管区司令部の防空作戦室跡」もあります。広島城が戦争の歴史とも深く関わってきたことがわかります。
5. 平和記念公園と合わせて回る
私はこの日、広島城跡を歩いたあと、そのまま歩いて原爆ドームと平和記念公園に向かいました。広島城と平和記念公園は、歩いて回れる距離にあります。
同じ日の午前は、呉で大和ミュージアムと入船山記念館を見ました。呉の軍港の歴史は、大和ミュージアムの見どころ5選と入船山記念館の歴史で紹介しています。
広島城と平和記念公園を回るなら、広島市内に泊まるのが便利
広島城と平和記念公園は、歩いて回れる距離にあります。広島市内に泊まれば、朝から広島城を歩き、平和記念公園や資料館もゆっくり見学できます。
6. よくある質問(FAQ)
Q. 広島城は誰が建てましたか?
A. 戦国大名の毛利輝元です。1589年に築城を始め、1599年ごろに完成したとされています。
Q. 今の天守は江戸時代のものですか?
A. いいえ。江戸時代の天守は1945年の原爆で倒れました。今の天守は、1958年に鉄筋コンクリートで外観を復元したものです。
Q. 広島城の天守には入れますか?
A. 天守は2026年3月22日に閉城したため、中には入れません。外観は見学できます。二の丸の復元された建物には入れます(入館料無料)。
Q. なぜ「鯉城」と呼ばれるのですか?
A. 広島城の別名が「鯉城(りじょう)」です。名前の由来には、いくつかの説があります。
7. まとめ
広島城は、広島の町の始まりとなったお城であり、戦争と原爆の歴史も伝える場所です。
- 1589年に毛利輝元が築城を始めた、太田川の河口の平城
- 福島正則のあと、浅野家が12代約250年治めた
- 明治以降は軍の施設になり、日清戦争では大本営が置かれた
- 国宝の天守は1945年の原爆で倒れ、1958年に外観が復元された
- 天守は2026年3月22日に閉城。外観と二の丸の建物は見学できる
参考・確認した情報(2026年10月17日確認)
- 広島城跡見どころマップ|広島城
- 閉城後の広島城天守について|広島城
- 広島城天守は、令和8年3月22日をもって閉城しました。|広島市
- 広島城の築城から被爆前、被爆、現在の状況|観光庁 多言語解説文データベース
- 広島城|nippon.com


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